『おーそれみお』
昨夜まで降り続いた雨の作った泥濘を避けるように運んだ革靴は、けれどそのつま先とズボンの裾に飛沫をあげた。
一瞬そのまま両足を水溜りに踏み入れてしまいたい誘惑に駆られたのを思い直して目的の場所を目指す。
今は葉ばかりを茂らせる桜の連なる細い道を抜けると賑やかな声がきこえてくる。
ボールの跳ねる音やホイッスルの響き。ごおお、と吹き上がる熱気交じりの風。
しばし足を止めて辺りを見回せばじんわりと胸の中心をを何かが満たしてくる。
ああ、やっぱりあそこにいたんだ。
開放したままの大きな扉のひとつに見慣れた姿を見つけ出す。
歓声の外で気配を隠すでもなくスチールの扉に寄りかかっている背中に泥を避けるときよりずっと慎重に息を止めて近づく。
「ばんっ!」
銃身に見立てた人差し指を仕立てのいいスーツの背に押し当てれば彫像かなにかのように澄まして立っていた男が笑み崩れながら圧し掛かってきた。文字通り笑いながら崩れたという状態。
「んなっ、ちょ、獄寺くんっ!」
シトラスの薄い香りと一緒にクツクツと喉の奥で笑う振動が直に伝わってくる。
「10代目。オレ、今ので昇天しました」
長い腕が巻きついてくるのを押しやって睨めつけてみてもただ嬉しそうに目を細めるばかりだ。
こんな暖簾に腕押した自分がやっぱり負けなのか?
勝負のつもりはなかったけれどなんとはなしに悔しい気がする。
自然と尖った唇は反撃の言葉を紡ぐ前に小さく啄ばまれた。
「だ、から、こ、ここどこだとおもってんだよ?!天国じゃないのは間違いないからね」
「大天使が目の前にいらっしゃいます」
大声を出しそうになるのをぐっと堪えて自分も今いる場所のことを考える。
公立並盛中学校、走馬灯が廻って夢をみせているのじゃなければここは天国なんかじゃない。
天国なんかじゃないけれど。何をやってもダメダメで逃げ足と諦めることだけは速かったおれが過ごした大切な場所。
そう、天使っていうならあの子の笑顔がみたかったからどんなにダメライフでもここに通っていたんだよね。
可愛かったな、京子ちゃん。彼女が好きなケーキみたいに甘くやさしい声で「ツナくん」って呼ばれたときは本当に夢かと思ったよ。
だってクラスメイトの誰ひとりとしておれをツナくん、なんて呼んでくれたことなんてなかったんだ。
良くて沢田で大抵はダメツナ。実際自分でも認めるダメっぷりだったし抵抗する気もなかったからそれでも構わなかった。
ツナくんってすごいんだね、そんなこと云ってくれるなんて夢でだってなかったことかもしれない。
無邪気な京子ちゃんを思い出してふわんとした浮遊感を味わいながら脳内の音色を反芻しようとしたところで足元のバランスを崩した。
あっと云う間に巻き直された腕が勢い良くおれを引き寄せたからだ。
「10代目」
少し苦しそうにトーンを抑えた低く囁くようなその声は身体ごと気持ちごとおれを獄寺くんに引き戻した。
何か云いたいことがあるのに我慢している眉間の深い皺とおれを映す痛いくらいに真っ直ぐな瞳。
まなざしの矢が、湖の底で揺れるような翠の影がおれを捉えて離さない。
「・・・10代目」
どうして君は肝心なときはいつもそれしか云えなくなってしまうのかな。
大袈裟におれを絶賛する謎のマシンガントークや世界の不思議を語る饒舌さ、会議中の冷酷無比な舌鋒は一体何処に行ってしまうんだろうね。
10代目、そんなふうに初めておれを呼んだのが他でもない獄寺くんだ。
京子ちゃんはやさしくツナくんって呼んでくれたけど獄寺くんは10代目って呼びながら、時には叫びながらおれに沢山のことを伝えてくれた。
もう10年以上もそうやっておれの隣にいる獄寺くんだから鈍いおれだってある程度の言い分は解るようになったと思っている。
心臓の鼓動が伝わるほどに近いところでおれを呼んでいるくせにいつもどこかで届いていないと不安になっているのだ。
聴力は抜群だからほんの小さな呟きも拾い上げるし、ついでに変な勘もいい。獄寺くん曰くのテレパシーってやつ。
テレパシーは時々アンテナの方向がおかしくなったりするみたいでとんでもないことを受信したり発信したりもしてくれるのだけど。
ねえ獄寺くん、おれのテレパシーはまだ届かない?
「獄寺くん」
体育館の扉の陰、反対側に見える渡り廊下の向こうにあの日の獄寺くんがいた。あの日の獄寺くんがおれの背中を押した。
「君がすきだよ。ずっと隣にいてくれてありがとう。これからもずっと一緒にいて欲しいって云ってもいいかな?」
僅かに緩んだ腕の隙間から乗り上げるようにしてその薄い唇を食む。
ひんやりしていそうに見えて暖かい獄寺くんの唇は触れている間にもっと熱を持ってそこから溶けてしまうんじゃないかって気分になる。
戸惑うみたいに動きを止めている獄寺くんに遠慮しないことを決めて二度三度と緩く口づければ恐る恐るといった素振りで舌先が応え始めるのを胆力で制してほんの少しする錆びた鉄の味ごとちゅっと音を立ててから先刻思いついた殺し文句を言い放つ。
「目に余るやわさだぜ」
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