■分かれ岐 1
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振り返ると、木陰のベンチの老人は、優しく頷いて、軽く手を上げた。老人の膝で愛撫されていた猫は、離れていった手を不満に思ったかのように、首をもたげてにゃあと鳴いた。
余所者はこれで去ると知って、あちこちの灌木の向こうから遠巻きに伺っていた子供たちが、わらわらと老人の周りに駆け寄っていく。自分の孫を見守るようなまなざしで、老人は、目を細めて笑った。鳩たちも、ベンチのまわりにばさばさと舞い降りてきた。猫がいるのにと思ったが、既に背中をそっと撫でる骨ばった大きな手にごろごろと喉を鳴らして、肉食の本能は、骨抜きになっていた。
「行きましょう、10代目!車、呼びますか?」
傍らを元気に歩く獄寺から声を掛けられて、綱吉は首を振る。
昼下がりの公園の、平和な光景はゆっくりと、背後に遠ざかるのだろう。
無邪気に騒ぐ子供たちに、毛並みの良い猫に、満腹した鳩たちに、ひとこと、言ってやりたかった。
その優しい手は、長い長い年月、重たい銃と魔法のステッキと万能のペンを握って、この街を力で支配し続けてきたのだと。
スーツすらまだ似合わないオレにその重圧を押しつけて、手に入れた平和がこれなのだと。
「いや、良かったっすね!9代目もまだまだお元気で…お幸せそうで!」
「うん」
「オレも10代目の右腕として、襟を正したいって、すげえやる気出ましたよ!」
「…うん」
「次世代を担う10代目は、絶対にこのオレがおそばで盛り立てて差し上げますからね!」
「あはは…」
「さて、これからどうされますか10代目。お茶でもされますか?ちょっと早いすけど、飯でも食いますか?どこでもご希望の品を言って頂ければ、ボンゴレの威光にかけて最高の味を出させてみせますよ!」
「ん…もう帰ろうよ」
「ええっ」
「だめだよ…おしのびなんだから、ボンゴレなんて言っちゃだめ」
「す、すみません!」
「いや…此処じゃ9代目に迷惑かけるから」
「なるほどっ!流石10代目!なんて深いお心遣い!」
古い石畳の道を、俯いて歩くと、ぴかぴかに磨かれた皮靴が重々しい音をたてて一歩一歩ついてくる。
その靴は、今朝起きたらおはようございますっと元気に頭を下げた獄寺が磨いておいたもので、その靴にぶかぶかと裾のかかる大きめのスラックスも、獄寺が鼻歌交じりにブラシをかけてプレスに出していたもので、ポケットに手を入れれば触れる清潔感溢れたハンカチは獄寺がぱんぱんとよくたたいて干してアイロンをかけたもので、それを言うならそのジャケットも…兎に角、綱吉が自らの意志で身に付けたものなどひとつもない。
寝癖のまま、よれよれのジャージで近所のコンビニにぶらぶら通っていた日々が懐かしかった。
あの頃の自分の憧れた世界は、子供好きなクラスメートの少女や、笑顔でサヨナラホームランを叩き出す野球少年や、そんなみんなといつか、仲良く談笑できる自分を夢見ていた、始まったばかりの中学校生活。
生来のおっとりした性格が急に変わる筈もなく、小学校の続きのような暗雲の気配はあったけれど、まさか、そんなありふれた未来や家族さえ奪われて、こんな言葉も通じない外国の街に住むことになろうとは思っていなかった。
すれ違うひとと肩が触れる。いまだ意味もよくわからないまま、上目遣いに、スクージィ?と謝る。相手はその子供っぽい仕草に思わず笑みを浮かべて、スクージィ、と去っていく。
隣で、盛大に舌打ちされた。綱吉はびくびくと見上げる。
「10代目!あれはあっちが悪いんすよ。笑いやがって…ちょっと果たしてきます」
「ま、待ってよ、だから、目立つことしないで」
「…相変わらず寛大ですね」
仕方なさそうに、溜め息をつくが、綱吉の願いは聞き入れてくれる。
堂々としていて、その気になれば気品もあって、異国の言葉も縦横に話せて、どうやら勉強も出来るらしい、ただちょっと喧嘩っ早いのだけは心配だが、嬉々としてマフィアの恐ろしい所業を語るこの少年を、ボスにしたら良かったんじゃないかと綱吉は常々、思っていた。
そうしたら、自分は用済みで日本に帰れるのではないか。
しかし何故か、彼は満面の笑みで宣言したのだった。
「オレの夢は、ボンゴレ10代目ボスの右腕になることっす!!」
唯一日本語で話せる小さな自称家庭教師の意を受けて現れた、流暢な日本語を操る少年、その衝撃の出会いから、少しは時間が経ったのだけど。
この少年の背に隠れるように頼りきりの自分の生活を、誰よりも自分が、不甲斐ないと思っていた。とてもとても居心地の良い、鳥かごの中にいるような生活だった。
「明日は早めの飛行機ですからね。休暇と言っても、訪問先が多くてお疲れでしょうけど…10代目?」
「…帰りたくない」
小さなホテルに帰ると、早速次の予定を語り出した獄寺は、何か超常的な現象による音声でも聞いたかのように、目を見開いて、あたりを見回した。
ベッドスプレッドを剥がしたシーツの上に小さく丸まった綱吉はそれをみて苦笑した。
「嘘だよ…ちょっと昼寝してから、晩御飯食べようか」
「は、はい。失礼しました。ではオレ、隣の部屋にいますから、なにかご用があったら携帯で呼んでくださいね。30分くらいしたら、また伺います」
「うん」
では、とあたふたと出て行こうとする獄寺の背中には、スーツは優雅に似合っているのだった。
ふと、綱吉は声をかけた。
「獄寺くん」
「はいっ」
「ひとつだけ、教えて。きみ…ボンゴレのボスの右腕になるのが夢って言ってたけど…なんでそう思ったの?」
「え?それは、9代目とリボーンさんから頂いた有り難いオファーだったんですが…なんでっすか?」
「ごめん、なんでもない。おやすみ」
困惑したように、しばらく沈黙が落ちたが、またのちほど、と呟く声を最後に、ドアが開いて、閉まる。
綱吉はむくりと起き上がった。
窓から入る光は、薄手のカーテンを透かしても、まだ明るかった。
***
「10代目、10代目」
焦ったように呼ぶ声と、その合間に、何かひっくり返すような音が続く。綱吉は窓の外に身を縮めて、やり過ごそうとした。
「10代目、どこですかっ」
声はだんだん深刻さを増して、トーンが低くなる。
綱吉は耳を塞いだ。
足音は間もなくばたばたと遠ざかって、あたりは静かになった。
綱吉は立ち上がって、中を伺い、そして窓を開ける。
今までの破格の待遇にはほど遠い逃亡生活が待っているとしても、ごくシンプルにできている綱吉の頭脳では、既に走り出した自分を信じて、とっさに組み上げた手順を進めていくことしか出来ない。
放り出したままの旅行鞄の内ポケットに、おやつ用の小銭があったはずだ。だが、焦る手の中に入ってくるものは、自分で入れた覚えもない贅沢な旅行用の小道具ばかり。獄寺が勝手に気をきかしたのだろう。
そのとき、なにかの気配を背後に感じて、手をとめる。
なにか気になることでも出来たのか、部屋に入ってくる足音がした。
もう、窓を開けている時間的ゆとりはない。
とっさに、窓際に蟠る厚手のカーテンに隠れた。
綱吉の細い肩を隠すには、十分な幅がある。
そこで再び、息を殺す。
黙って入ってきた足音は、部屋の真ん中でとまった。
思えば、トランクが開けっ放しだ。
「これは、賊の仕業じゃねえな。…10代目の貴重品は全て、オレが預かってるし」
誰にともなく、低く呟くような声が無闇に響いた。
綱吉はぎゅっと拳を握り締めて、そうだったのかと唇を咬んだ。
「…無一文でたったひとりで逃げたところで、生き延びられる世界じゃねえ。いや、そんなことは先刻ご承知だよな、10代目のことだ」
わかってる。いや、わかりたくなんか、ない。深く考えたら、こんな選択肢はなかった。
なのに、そのチャンスを与えたかに見えた、きみが悪いんだ。
告げることもできない反論が、脳裏をぐるぐるまわった。
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