連弾







音楽室には黒板消しのクリーナーが置かれていないので、窓から手を伸ばして棒でパンパンと叩いた。白いチョークの粉が学生服につきそうだが仕方ない。
「んなもん、置いときゃ良いのに」
背後で声がした。
「獄寺君」
めったに掃除の時間に見かけることのない獄寺隼人。何故か綱吉が一人で掃除を押し付けられているとぶらりとどこからともなくやって来る。小学校までは違った学区も中学では同じだ。勉強はできるし、スポーツも万能。背も伸びていよいよ差のついた感のある幼なじみ、でも、綱吉には変わらない優しさを見せてくれる。同じ小学校からの持ち上がり組が綱吉を“ダメツナ”とからかえばギロリとその三白眼で黙らせるから、最近ではその呼び名を聞くことも減った。
「ツナはホントはやるときはやるのに、普段甘いからつけあがらせんだよ」
というが、自分の実力相応だと綱吉は思う。
隼人が“やるとき”というのはごくごく稀に、スイッチが入ってしまう無意識モードのことだ。
隼人が高校生に絡まれてさすがにやられそうになった時、車とぶつかりそうになった時。自分でも分からないまま、周囲に“ハイパーツナ”とからかわれるような状態になってしまう。だがあれは何かのまぐれだと思う。
ただ変わったのは綱吉の呼び方。隼人は少し不満らしいが、いつの間にか“ごくでらくん”とかえって他人行儀になってしまっていた。理由は何でだか綱吉にも判らなかった。
金曜日の放課後。何とはない開放感があった。面倒くさそうに箒をロッカーから出そうとする隼人に黒板消しを定位置に置きながら言った。
「もう大体終わったし、いいよ。それよりさ、獄寺君、何か弾いてよ」
綱吉は慣れた様子でピアノの前に座った。隼人はきれい好きなので、チョークで制服が汚れないようにと、少しはたいて身繕いをした。
返事のない隼人を振り向くと、火のない煙草をくわえて、じっと綱吉を見ていた。
「はやく」
「‥‥ここでかよ」
何言ってんだ、さっさと弾いてよ、と綱吉はちょっと口を尖らせる。中学に入ってピアノを止めて以降、自分で弾く気はさっぱりないらしい。まあ、もともと隼人の母親に一目惚れしてのらりくらりとやっていたわけで、ピアノがもの凄く好きというレベルにあったわけでもないだろうけど。
「だけど今でも聴くのは好きだな―――特に獄寺君のピアノは」この間もそんなことを言っていた。
隼人はバレないように小さく息をもらした。
この愛らしい幼なじみはどうにも成長が遅いような気がする。何とか性徴とかいう意味でだ。そりゃぁ小学校時分はあれもアリだったろうが――――。
「あのな‥‥‥他の生徒が見たらヘンじゃねえ?」
「あ、そっか‥‥」
なるほど少しは変だってのは理解してるわけだ。
「でもここ誰も来ないよ」
そう言いながら、小さな手で椅子をぽんぽんと叩いている。諦める気はないらしい。根負けした隼人は綱吉の背後に回ってその肩に手を置いた。綱吉の細い肩に体重を何分か任せ、片足ずつ足をあげて椅子の前に持って行く。

中学生になった綱吉は前みたいに小柄なわけではないが、その分自分も成長しているので弾くにはそれほど支障はない。超絶技巧の曲を弾くわけでもないし。腕を拡げてまわし、身体をほぐし、鍵盤の上に両手を持って行く。音楽記号で言ったらフェルマータだ、と思う。
「何が聴きたい?」
「早いヤツ。こないだ獄寺君の部屋で聴いた青いカバーのみたいの」
「ピザレリか‥‥あれはちょっと難しいけど」
洒落た感じの軽快なジャズだ。嫌いな曲ではない。
そう言いながら適当に難しいところは誤摩化しながら、弾く。
手の届きにくい綱吉の前辺りを弾く時はコツがいるが、それも慣れたものだ。綱吉も力を抜いているから隼人が軽く押せば存外邪魔にはならない。ただ、今日のはクラブで弾くような派手なけれん味の多い曲だから、中程に丁度鍵盤の鍵穴辺りで両手を近付けて展開する早弾きのパートがあった。
端折っても良かったが、綱吉は気に入ったらしく熱心に聴き入ってるからなるべくそれっぽくしてやりたかった。綱吉の身体の左右から腕を大きくまわして多少押し間違えても良いからリズミカルにグルーブ感を表現する。

―――楽しい

自分の中で音が跳ねるのが分かる。
隼人はもうピアノを人前で弾くことはない。小学生のころには周囲をため息つかせるほどの腕前で、なんやかんやと言われることもあったが、自分の将来について口出しされるのはムカついた。
母親も理解してくれていた。
自分は自分の為にピアノを弾けない。ましてや不特定多数の誰かの為に弾く情熱もない。ただこうして、たまに。

―――これだけで充分

そう思う。
難しい部分を弾きこなし、その演奏に感心して息を詰めていた綱吉がふぅっと息をもらした。隼人は自分の腕の中で心底リラックスして音に、隼人に身を委ねている小さな身体に意識が行く。
(‥‥って、これはちょっと、さすがに‥‥)
傍から見たら後ろから抱きすくめているようにしか見えないはずだ。
そう思い始めるとどんどん、意識は腕の中の幼なじみに流れ込んでしまう。柔らかそうな耳。そこにふわりとかかった髪。肩幅は狭くて演奏の邪魔にならなくて良いけど、
(これじゃあ俺に羽交い締めにされたら、抵抗なんて出来やしないだろうな)
自分の胸にぴったりと付いている背中―――少し隙間を空けて置かれている腰。
(‥‥‥やべぇ)
隼人の手がいつものように滑らかでないことに気付いた綱吉が半分振り返った。
「どーしたの‥‥?」
気がつけば、左手は鍵盤から離れて細い顎をつかんでこちらにぐっと引き寄せていた。右手で腕ごと身体を抱き寄せれば、綱吉が驚きのあまり身を竦めるのが判った。
嫌がってる。
そう思ったがもう止まらなかった。ぐうっとか、んんっとか声を漏らす小さな口を逃がさず何度も喰いついた。近すぎて焦点が合わないが、薄茶の瞳は見開かれ、歪められている。
必死で放たれてしまった衝動を何とかコントロール下に再び納めた時には―――綱吉は泣いていた。
どうしていいか分からず、緩く綱吉を抱えたまま、上がった息で隼人は声を振り絞った。
「‥‥ご、ごめん」
身をよじるようにして隼人を押しのけると、ピアノと椅子の隙間から綱吉は逃げていく。
後ろの机の上に置いてあったコートを羽織る手が震えているのが見て分かる。
「ご、‥‥ごめ‥‥お、俺、ツナ――――」
やっとピアノの椅子から立ち上がって側に寄ろうとした隼人を、涙に潤んだ目がキッと睨みつけた。
「来るな」
隼人の身体は指先からつま先まで、その短い呪文に凍り付いた。
開け放した扉から、綱吉が廊下を駆けていく音が聞こえた。

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