自分の趣味で一杯に詰まった部屋のベッドで隼人は寝返りを打った。リモコンでステレオの音をもう一レベル上げる。枕に顔を埋める。それでも消えない。
耳に残響するあの綱吉の声。氷のような声。
網膜から消えない。あの表情。
嫌がってたのに。今まであんな風に嫌がった相手にキスなんかしたことはなかった。そうまでしてやりたいと思った相手なんかいない。あっちがして欲しがるから。
でも昨日は。押さえきれない欲が込み上げて―――。
(きっと――――バレてたよな‥‥)
あの瞬間、ぐっと強く身体を引きつけてしまったから。きっと綱吉にも判ったに違いない、隼人がどういう状態にあったかを。
危ない、と思ったことは何度かあった。綱吉の表情や動作はどこか隼人に訴えるところがあって。でも、隠し果せる自信があった。初めて会ったときから、感じるものがあったから。こいつとはずっと一緒な気がする、と。
そして一緒にいればいるほど、それは確信に変わり、ピアノや何かに時間を費やすくらいなら綱吉と一緒にいたい、その方がずっといい、そう思っていたのに。
自分は一瞬でその関係を壊してしまった。
謝りたい。もし忘れてもらえるなら、何でもする。みんなの前で土下座したっていい。
他の誰に憎まれても疎まれても毛ほども気にしないが、綱吉に無視される、綱吉が自分を嫌ってもう会いたくないと思っている、そう考えるだけで情けなくも涙がにじんでくる。
母親が呼んでいる。
耳の良い隼人はピアノの部屋から呼ばれたって聞こえるのだが。
立ち上がる気力がなかった。
驚いたのは階段を上ってくる足音。プライバシーを重んじるヨーロッパ育ちの母親は、断りなく息子の部屋に入ってくることはしない。たとえ少しくらい返事がなくても。それくらいなら笑顔で夕飯を抜きにする、そういう教育方針だ。
次に気付いた。母親の足音じゃない。
ばんっと、
何も考えずに扉を開けていた。訪問者はノックの手も下がらないうちに開け放たれたことに驚いて、まん丸の目でこちらを見ていた。
「‥‥‥‥‥‥」
何も言えなかった。
ベージュのダッフルコート。寒さで朱色をさっと一刷毛したかのような鼻先、柔らかな頬。飴色の虹彩。
隼人は泣きたくなった。
謝れない。
悪かった、もうしない、つい。
そんな風には謝ったり出来ないと思った。あれは気の迷いじゃなかったし、唐突に了解も得ず行動したことは悪かったと思うけど、もうしない、とは言えない。言えば嘘だから。
もっとキスしたい。あれだけじゃ足りねえ、もっと――――したい。
ごめん、俺、気付いちゃったみたいだ。俺はツナにずっと触れたかったんだ。そういう意味で。
でもここで正直に言ったなら。目の前の、勇気を振り絞って来てくれただろう“幼なじみ”は今すぐ背を向け消えてしまうだろう。たぶん、永久に。
隼人は黙って俯くしかなかった。
「獄寺君」
思考も心も、身体もがちがちに固まってにっちもさっちも行かなくなった隼人をふんわりと温もりが包んだ。
「ツ‥‥‥‥?」
「ごめんね―――ちょ、ちょっと‥‥」
背伸びをしながら隼人の首にまわされた腕が震えている。隼人が再び動き出すまで、少しの時間が必要だった。
やっと、確かめるように唇をぱくぱくとさせて、掠れ声をもらした。
「ん‥‥だ、き、昨日あんな嫌がってて‥‥み、見え見えの無理すんなって」
「か、顔見ると、言えないから‥‥‥その」
懸命に話そうとそているのは分かるのだが。
「どうしてあんな‥‥‥したのかな」
そんなこと聞くのに、何でこんなポーズだ?鈍いにも程があるだろ、と隼人はほとほと弱った。だが仕方ない。自分は絶対的弱者なのだ。この沢田綱吉に対しては。あらん限りの誠意をもって答えるよりない。
「すごく―――したかったから。‥‥ツナが好きだから」
言う順番を間違えた、と思ったが本音が出たと言えなくもない。ウンザリ自嘲気味の隼人は鼻で笑った。
「‥‥笑った?何で?」
綱吉は少し身体を離して獄寺の目を見た。まともに目を合わすのはキツかった。
そっぽを向いてさりげなく言う。
「ついにバレちゃったから。―――あーぁ、って感じだ」
投げやりな隼人に綱吉は顔をしかめる。
「なんだよ、それ。ふざけてる」
綱吉の両手は獄寺のセーターの肘辺りをつまんでいる。
「ふざけてねえって―――さっきまで死んでたし、この後もしばらく浮上出来そうにネエよ」
ぎりぎり努力して形だけの笑顔を綱吉に差し出した。
「俺、嘘付けねえ質だし。もう側に行かないようにするから‥‥悪かったな、ごめん」
隼人はきゅっと唇を噛んだ。
「それは困る」
「は?」
斜めに綱吉から視線を外していた隼人は思わず、正面に向き直って訝しく思う。綱吉の予想外の表情、言うなれば――――不機嫌そう?
「オレ、獄寺君が側にいないのは嫌だ」
綱吉はたまに隼人に対してとても我がままなのだが、これもそんな口調だった。明日家に泊まりに来て。一緒に花火行こうよ。
―――あのな‥‥これはそういうのじゃネエから。
「嫌って言われても―――お前、困るだろ、俺にその‥‥昨日みたいなことされたら」
「もう大丈夫」
「っ‥‥‥‥けっ、‥げほっ」
隼人は思わずむせ返った。
「だ、大丈夫ってなんだよ、それ?!―――ツナ、分かってねえ、お前、ちっとも分かってねえよ」
髪の毛をぐしゃぐしゃっと掻きむしって、隼人は人差し指を綱吉の目の前に立てた。
「お前はほんと、たまにバカに頑固だからな――――いいか?俺はお前を隙あらば襲いそうになるんだ。だからもう近寄らないし、近寄るな。じゃなきゃ、嫌な目に遭うのはお前だ、ツナ」
「オレはバカだけど、それは獄寺君が間違ってる」
隼人はバカと言ったつもりはなかったが、何だかすましたような綱吉の物わかりの悪さにいら立ちを覚えた。
「何が?俺の何が間違ってんだよ」
「オレは大丈夫って言ったよ?だから今まで通り一緒にいる」
「大丈夫のわけねえだろ!」
ついに隼人は声を荒げた。いつもなら小動物のように身体を縮ませる綱吉は平然としていた。切り札を隠し持った余裕の表情。
「んだよ、その自信は‥‥」
そこのところを上手く言うのはさすがに綱吉には難しかった。昨日は確かに恐かったから―――隼人の荒れた息や、強い腕の力や‥‥それと勿論はっきり感じていた腰に押し付けられた感触とか。本当に、一言で言って“恐い”だった。
そして昨夜、綱吉は夢を見た。夢の中の隼人は音楽室でしてきたような感じでキスを迫ってきて。でも夢の中で綱吉は拒まなかった。恐くもなかった。それどころか。朝になって知った。自分もあのとき欲情していた。夢の中の体温も匂いも生々しい隼人にも。少し遅れているのは判っていたけど、まさか隼人とそういうことをしたいと思うなんて。あまりにショックすぎた。
けれど綱吉には人より優れて卓越した能力があった。問題先送り能力。このことに向き合うのはちょっと自分にはまだ早い、と思う。でも、隼人と会えない毎日は考えられない。まさか隼人も一足飛びに何かって考えてるわけでもないだろうし、ぎゅっとされたり、ちょっとキスくらいなら――――ぜんぜん平気だ。いや、恥ずかしいけど、ハッキリ言ってちょっとドキドキするくらい、かも。
そう結論づけると、綱吉はいつにない果断さで隼人の家に向かっていた。
知っている。今頃、獄寺君は自分の部屋でご飯も食べずにベッドにうずくまっているって。
誰にも物怖じしない、一見何も恐いものなど無いかのような隼人。あるとき、獄寺先生が綱吉にそっと耳打ちしたことがある。ちょっとした行き違いで二日ほど口をきかなかった時だ。
「隼人はツナ君に怒られるといつも部屋に篭っちゃうの。二日でも三日でも。手のかかる子でごめんなさいね」
どうしようもない、と呆れた様子で二階に案内してくれた。
今日もあの時と同じで。
扉を開けた君は昨日のオレより泣きはらした目だったよ。すっかり萎れて。
じっと隼人を見ていた大きな目が薄く閉じられた。再び、隼人の肩に綱吉の手が伸び、背伸びする。少し斜めに、ついっと顔を突き出されれば。
隼人の視界がぐらっと揺れる。
やわらかな衝撃。
触れただけじゃなかった。少し開いた唇の湿気った部分がついばむように隼人のぽかんと薄開きになっていた口中に押し入った。ほんの僅かな時間だったが。
「だから‥‥大丈夫」
隼人は呼吸の仕方すら忘れた。脳溢血とか、くも膜下とか、そういう発作はこんなふうなんじゃないのか、そう思えるようなショック。
当の本人は顔を赤くしてはいるが、存外平気―――どころか、してやったりの得意気をのぞかせている。
隼人は悟った。この先、俺たちの位置関係はずっとこうだ。絶対に、この少年に自分は勝てない。だったらもうジタバタしても始まらない。肚を決めて絶対服従を誓うのみ。
「明日、お年玉で買う携帯プレーヤー見に行きたいんだ‥‥ついて来てくれる?」
何でかこんな台詞の方をずっと遠慮がちに言う綱吉。
隼人の声音は神妙だった。
「ついてくよ――――どこだって」
一生ついてゆくから。
終わり
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