『連弾』
台所の奈々はひょいっと玄関をのぞいてため息をついた。
息子は上がりかまちに腰掛けて、まだもぞもぞと靴を履いている。やっと朝ご飯を食べ終わらせて台所を出て行って、かれこれ5分は経っている。自分もマイペースと言われる人間だけど、小学三年生になってさすがにこれでは少し問題なのではなかろうか。学校でもあまり溶け込めていないようなことを先生も仰っていた。
集団行動とかをもう少し学んで欲しいと、春には空手教室へ体験入学させてみたけれど大泣きで帰ってきた。どうやらああいうものは向きではないようだし‥‥。
「はけた?」
「うん」
つっかけで外の門扉まで見送ることにした。ランドセルを背負わせ、玄関の戸を開けてやる。
「‥‥いってきます」
「いってらっしゃい」
覇気のない様子で下向き加減で歩いていく綱吉の後ろ姿を見ながら、奈々はため息をついた。
ふと、新聞受けに一枚の小さな紙がポスティングされているのが見えた。早々に古新聞のボックスに入れようとして手を停めた。
「‥‥これ、良いかも知れないわ」
二時半に綱吉が帰宅すると、いつもは買い物だなんだと出かけていない母が、外出着で待ち構えていた。おかえり、の前に得意満面に手提げ袋を差し出された。
「ねえ、ツッ君、これからお母さんとお出かけしましょ」
嫌な予感がした。綱吉はこの母親が優しくて楽しくて大好きだったが、頻繁に思いつきで行動し、色々な目に遭わされる点には閉口していた。この前も、極真空手の道場に入塾させられそうになって死にそうな目に遭わされている。奈々にはフルコンタクトの極真とカタから入る普通の伝統派空手の別がついていなかったのだ。
「な、なに?」
「隣り町にね、ピアノ教室が出来たの。とっても素敵な先生みたいなのよ。ふ、ふえ‥‥ルッチョ‥‥コンクール一位!」
奈々は手にしている小さな紙切れを読み上げる。
「‥‥母さん、またテキトー言ってるでしょ」
まったく熱のない綱吉の態度に奈々は鼻息を荒くした。
「まー!何よ、せっかく母さんが電話までして予約してあげたのに」
「よ、予約?」
やはりだった。綱吉は自分の嫌な予感が的中したことに、泣きそうに眉尻を下げた。ただでも、ひ弱で体育も勉強も駄目だとバカにされているのに、この上ピアノを習ってるなんてバレたら学校で何を言われることか。綱吉は分かっていた。自分みたいなキャラがそういうすかした真似をしても誰も感心したりはしてくれないのだ。馬鹿にされるだけ。だが、奈々が言い出したら聞かないことも綱吉は知っていた。
「はじめまして、綱吉君‥‥ツナ君でいいかしら?」
綱吉はぼーっとしていたが、奈々から小突かれてやっと真っ赤な顔で頷いた。奈々が見つけてきたピアノ教室の先生は、綱吉が生涯見たこともないほどきれいな女性だった。テレビに出ているアイドルとか、女優とかいう人たちより、ずっと。柔らかな色合いのワンピースにレース編みのカーディガン。何かいい匂いもした。だがその次の彼女の言葉に綱吉は大ショックを受けた。
「先生にもツナ君と同い年の息子がいるのよ」
あっと言う間の失恋だった。とてもそんな年齢には見えないが、ということは彼女は“ひとづま”なのだ。ひとづまとは結婚出来ないことくらい綱吉だって知っている。
「まあ、ツッ君、お友達になれると良いわねえ」
奈々ののんきな言葉に反し、綱吉がその息子と友達になるようなことはなかった。それどころか、顔すら見ることも無かったのだ。その一年後まで。
綱吉は失恋のショックにも負けず、それから一年熱心にピアノ教室に通った。獄寺先生は今は“ばついち”らしいが、子供の自分にそれは置いておいても、週に一度、きれいな音楽を美しい先生に優しく指導してもらえるのは、思っていたより楽しかった。他の子供のいない個人の家でのんびりとやれるのも綱吉には合っていた。いや、実際にはすぐ側、多分二階に子供が一人いるはずではあったが。
先週、課題となっていたところまでをとつとつと一通り弾き終わり、綱吉は先生の方を見た。
先生は難しい顔をしていた。途端に、綱吉は不安になった。
(やっぱりダメなんだ‥‥一生懸命やったけど――――オレやっぱりピアノもダメなんだ)
自分でも知っている。綱吉にしては頑張ってはいるけど、たまに先に来ている自分より小さな女の子や、同じクラスの子が音楽室で遊んで弾くのを聞けば、自分がいかにへたくそで、ちっとも進歩が無いかと言うことを。
涙がこぼれそうだった。獄寺先生にもダメって思われちゃったんだ。
俯く綱吉の横で丸いビロードカバーの椅子から立ち上がると、彼女は部屋のドアを開けて階段に向かって大きな声で呼んだ。
「隼人!」
涙もひっこんだ綱吉は先生の背中の隙間から、ドアの外を見た。ギッギッと音がして誰かが降りてくるのが分かる。一年間、この教室に通って、声すら聞いたことも無い自分と同い年の少年の足音なんだ、と綱吉の心臓はばくばくと音をたてた。
階段の途中で止まったので、膝から下だけが見える。細くて長そうな足。背は綱吉より高いに違いない。
「なんだよ」
ぶっきらぼうだが、呼ばれて来た早さを考えると、綱吉よりずっと母親の言うことを聞くのかも、と思う。
「あなた、月の砂漠弾けるでしょ」
「はあ?――――当たり前だろ」
「来月の発表会に出て欲しいの」
「ばっ‥‥‥何で俺があんなガキみてぇな曲、俺は発表会とか出ねえって言ってるだろ」
息子の口調に母親は慣れっこらしく、腕を掴んで部屋に引っ張り込んで来た。
「あなたじゃないのよ、ツナ君の演奏に一緒に出て左手だけ弾いてちょうだい」
いかにもいやいやという重い足取りで入って来た少年に綱吉は目を見張った。
銀色の髪、細い鼻梁、薄い色の形の良い唇。まるで、先生が少女になったような顔立ち。
その緑の瞳には優しさの代わりに、いら立ちと軽蔑を浮かべていたが。
「オマエ、ホントにへったくそだな―――聴いてるとイライラする」
母親譲りの、まるで美少女と見まがうような顔から、ポンポンと汚い言葉が繰り出されて、綱吉は一層手元がアヤシくなる。
「こうだろ‥‥」
隼人は手を伸ばして、綱吉の右手の主旋律を合わせて四フレーズほど弾いてみせる。綱吉の胸元に厚手のセーターの腕がくすぐったくて、背中を丸めて綱吉は椅子の端に腰をずらした。
同じ曲とは思えないくらい、年のわりに細くて力強い指が鍵盤の上を滑っていく。
「ふわー‥‥‥上手だなぁ」
意地の欠片もない賞賛に隼人はがっくりときた。
「―――大丈夫か、そんなんで。発表会再来週だぞ」
「無理かも」
寂しそうなその声に隼人はハッとした。
決して横に座る少年も平気なわけではないのだ。上手くなりたい、上手に弾けたら、そういう気持ちは彼にだってある。ただ―――きっと、これまで色々なことで自信をもってやれることがなかったから、諦めてる。そんな気がした。
母親に面倒なことを押し付けられたと、言いたい放題けなして来たことが、何となくばつが悪くなって隼人はピアノのフタに置かれた楽譜を少しめくって誤摩化した。
「‥‥無理じゃネエよ―――簡単な曲だし、落ち着いてやれば出来るよ」
そう言うと色素の薄い少年は「ありがと」と頬を少し染めた。
(こいつ変わってるよな)
隼人は俯いてつむじを見せている綱吉を見ながら思った。隼人の容姿はどう見ても日本人のそれとはかけ離れていて、大概初対面の人間はそのことについてとやかく言うか、もしくはうるさい沈黙を見せてくれる。目を見れば分かるのだ。自分への好奇心。父親の見えない獄寺家への要らぬ詮索。
あの美しい母親が自分を育てるためにどれだけ苦労して来たことか。それをのんきに日本でのうのうとやってきた連中がエラそうな目線で何をか言おうと、自分たちを見る。
綱吉は違う。何の前提もなく、自分の母親を「きれいで優しいピアノの先生」、自分を「何だか恐いその息子」と捉えている。小学四年だとしても純粋で素直な心。
(バカだからだな‥‥きっと)
隼人は横目で薄茶の目にかかる長い睫毛とか、小振りな少し尖った口元とかを見ながら結論づける。
「いいか、もう一度弾くからちゃんと聴いとけ。イメージを作るんだ、頭ん中に」
綱吉のためにわざとはっきりと動作を取りながら、ゆっくりしっかり鍵盤を押さえる。綱吉は隼人をこれ以上苛つかせまいと、懸命に耳を傾けた。
と、聴くことに集中し過ぎて、背もたれのない長椅子のヘリに置いていた手がつるっと滑ってしまった。
「うわっ‥‥」
どったーん、と派手に後ろに転げ落ちた綱吉は、真っ赤になって起き上がった。
「ご、ごめん、‥‥せっかく」
床にしりもちをついている綱吉に隼人は目を丸くする。
「何やってんだよ、バカか、俺の腕につかまりゃいいのに‥‥どんくせえな」
「だ、だってそしたら隼人君も落ちちゃったら―――危ないし」
先生は獄寺先生、そうなると、獄寺君と呼ぶのもややこしいので“隼人君”なのだろうが。
はあっとため息をつくと、隼人は椅子から立ち上がって綱吉の手を引っ張って助けてやった。
「どうしようもねえ――――ほら、座れ」
そういうと綱吉に椅子の真ん中を指差した。
「へ、でも‥‥隼人君は」
有無を言わさず座らされた綱吉の肩に手が置かれた。
「っしょっと‥‥おら、少し浅く座れって、狭いんだから」
綱吉を押して椅子の前半分にいざらせ、隼人はその後ろから綱吉を包むように腰掛けた。
(え、‥‥え、ええっ)
「この方が手の動きも分かるだろ、ほらちゃんと聴いてろって」
背の小さい綱吉とはいえ、座れば隼人の鼻くらいまでは頭がある。だが、鍵盤を半分見てなくても問題ないらしく、隼人は全く遜色なく演奏していく。
その音色は綱吉の背中から流れ込んでくる暖かな何かと相まって琥珀色に甘やかだった。
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