Siren


結露した窓の向こう側に黙って闇は横たわっていた。

時を刻む音と時折行き交う人の気配、我が身に張り付く焦燥感。

そんなものたちに支配されているのが疎ましく無意味と知りつつライターの蓋を幾度も開閉させた。

カチリカチリ。

十代目は今夜もあの忌まわしい部屋に囚われている。




ボンゴレの末端に繋がるその老人は腕の良い庭師だったが、とりたてて十代目と親密であったわけではない筈だ。

薔薇のアーチを丹精したり芝刈り機と共に移動したりする庭の一部みたいな存在。

十代目が特に園芸に興味をもたれたこともなかったように思う。

腐葉土を運んでいる老人をみて立ち止まったこともあるが、手伝おうと言い出されることもなかった。

「結構重労働だよねえ、獄寺君。なんかオレが喉渇いちゃった」

汗を拭う十代目と一緒にトラットリアに向かいレモネードを飲んだ。

余計に喉が渇いた気がするとグラスの氷を頬張る十代目は無邪気だった。




その庭師が病に伏しているのだときかされた。

医者の見立てによれば症状は進行しており回復することは年齢的にも体力的にも難しいらしい。

十代目は見舞いに行くのだと云ってあの部屋に向かったのだ。


そして連日足を運び続けている。今夜も。


勿論最初の日はオレも見舞いに同伴した。

老人は寝台に埋もれるようにしながらも小さな声で礼を述べ、十代目はその手を握った。

黄疸でくすんだ肌。頬がこけ眼ばかりが大きく、伸びていた背筋は歪んで一回り以上体躯が縮んでいるようにみえた。


厭な臭いがオレに警告する。いけない、十代目をこんな厭な臭いの中に置いていてはいけない。

一刻も早く外へお連れしなくては。


「十代目、あまり長居すると彼を疲労させますので・・」

腕をつかんで引っ張り出したいところを努めて静かに退室を促す。

「そうだね、うん。もう少ししたら戻るからそっちで待っていて」

提案は受け入れられず逆に部屋から出されてしまった。


仮にも見舞いに来ているので騒ぎは起こせない、そのくらいにはオレも分別がつくようになった。

軽く会釈をし、扉の外で主を待つ。



そこには何があるというのだろう。

オレは十代目のことを残すところなく知りたいと願うことがあるがすっかりわかった気がしたところでそれは全てではありえないだろう。

ましてや暴くものではありえない。



最初の見舞いから戻った十代目は辛そうな顔を引き上げるように微笑んでオレに「待っていてくれてありがとう」と云った。

いいんです、十代目。オレ、待つことは苦手ですが慣れているんです。待っていろと貴方が仰るんならいつまでだって待っています。

だからオレは待っていようと思ったが果たして十代目がオレに待っていろと云ったのかはわからなかった。



喉を湿らすためだけみたいにスープを口に運びながら十代目はオレのほうをみていたが、ふいと俯いてコンソメの表面を波立たせた。

「どうかされましたか?」

まるで気の利かない質問をしながら、ともすれば抱き寄せたい衝動を追いやるのにオレは腐心しフォークの先端に視線を逸らした。

「ううん、どうかしたっていうか。考えているというか何も考えられないっていうか」

手にしていたスプーンが傾いで床に落ちる。

「大丈夫ですか、休みますか」

「手が滑っただけ。相変わらず大袈裟だなあ」

十代目は慌てて駆け寄るオレに軽く手を振り「でもありがと」と小さく付け加えた。



翌日から十代目はオレを部屋に残して庭師に会いに行くようになった。

あの日部屋で感じた警告は最早確信に変わったが、十代目を引き留める切り札をオレはみつけきれずにいたのだ。

「ごめんね、獄寺君。一緒に行って貰ってもいいけど、君は行きたくないでしょ?俺はどうしてだかあの人をみていなくちゃいけない 気がするんだ」

「十代目、見舞いならもうしたじゃないですか。でも、どうしてもって仰るならオレだって行きますよ」

嫉妬かと訊かれたら否定しきれないが、それだけではないものがオレを急き立て行かないで欲しいと暗に訴えた。

「ごめん、会いたいと思ってない人と一緒には行かない方がいいと思うんだ。やっぱり俺ひとりで行くよ」

穏やかではあったが十代目はきっぱりと言い切りオレは頭を垂れ見送った。


数年前のオレならくたばり損ないのジジイを扉ごと爆破していたかもしれないが、

今はただそんなオレのささやかな分別ってやつこそを吹き飛ばしたい気分でいっぱいだった。



十代目は日毎に精気を失っているようでそれはあの部屋に奪われた分に違いない。

食事もあまり摂らなくなり元々細い首筋が常夜灯に白く浮かび上がる。


十代目、なにがそんなに気になるんです、そんなにも大事なことなんですか。


「あのひとはねえ、立派な人なんだよ。代々ボンゴレの庭を育てていてさ、どのオレンジが甘いかとか

あのレモンがいい香りだとか、風の吹き抜ける木陰を作る場所だとかをすっかり全部知っているんだ。

春と夏がかわる境目を予想して色が絶えないように花壇を作ったり。土や石や水や・・

そんなひとがこれから消えていくのはどうしてなんだろう、ねえ獄寺君」


わかっている、わかっています、十代目。オレだってどうしてなんだと思います。


「あのひとは・・あのひとの手はいのちを育てているのに・・それでも・・」


それでも。十代目、それでも人は死にます、オレも貴方も。


「でも今じゃないです、十代目」

「・・うん。大丈夫だよね。夕べもしっかりしてたし」

十代目は庭師の命運が今日ではないと受け取ったらしくそう云った。



オレは数式を解くように考えを巡らせる。

ピクニック、或いは観劇にお誘いする、馴染みの面子も揃えて、エトセトラ。


足して足して足して数ばかりが大きくなりそこに十代目はうまく代入できそうになかった。

いっそひいて消してゼロにしてしまえば。

それが出来るぐらいなら今頃は地中海辺りでバカンスを楽しんでいるだろう。







靴音が近づき扉の前で止まる。

火のついていない煙草を捻り潰しライターをポケットに放り込んだところで扉は開き十代目と目があった。


部屋は薄暗く表情がはっきりと見えない。今更のように明かりをつけることを思い出した。

「すみません、今明かりをつけますので」

「いい、そのままで。そのままでいいんだ、獄寺君」

十代目は壁際のソファに倒れ込むようにして身を投げ出した。

「お疲れになったんでしょう?休まれるならベッドにしたほうがいいですよ」

「いいんだ、眠りたいわけじゃない」

黒い革のソファにぐったりしている十代目の瞳はどこか潤んで熱を帯びているみたいだった。

薄茶色の円いそれに映るものがオレだけならいいのにと馬鹿げたことを願ったこともあるその瞳がオレをみている。


「獄寺くん・・・」

聞いたことのない声色で名前を呼ばれた。


「獄寺くん、オレ、獄寺君が好きなんだ・・」

「十代目?」

「ごくでらくん、すきなんだ、とてもとてもすきなんだ、ごくでらくん、すきなんだ・・」

まるで譫言のように繰り返されるその言葉にオレは打ちのめされそうになった。

「十代目・・・」


間違えてはいけない。取り違えてはいけない。セイレーンの旋律に耳を塞げ。


それだけを何故か自分に言い聞かせようと必死になるオレに気づいているのかいないのか十代目は半身を起こし

スーツの上着を脱ぎ捨てネクタイを外しシャツの釦を外して頤をオレに晒している。


「すきなんだ、ごくでらくん・・だから、だからオレを抱いてくれよ、メチャクチャにして欲しいんだ・・」


よく知ったはずのその声が何処か遠い國の単語を紡いでいるようにきこえた。薄い膜一枚隔ててきこえるそんな感覚。


「ごくでらくん、ごくでらくん・・」

バックルの擦れる金属音が響き足下に先月一緒に仕立てたスラックスがたたくれている。

緩く上下する華奢な肩と浮き上がる鎖骨のカーブ。


オレは床に膝をついていた。立っていられなかったからだ。


思いの外熱い指先。肩口に預けられた頭の重み。

耳元には不規則な呼吸音と不明瞭なオレの名前が降ってくる。


十代目、オレはここにいます。あなたもここにいます。


溺れる者が縋るような情熱でその身を出し出すあなたをただただ愛しいと思う。

それだからこそあの忌々しい部屋からの歌声を理由にするのが許せなかった。

あなたを満たす愛があんなものと共に思い出されることがあることが我慢ならない。


中途半端に行き場を失っていた両腕をゆっくり背中にまわし隙間なく抱きしめる。強く強く。

重なる心拍と駆け上がる血流。泡立つ肌。

十代目、腕の中の、オレの。


(十代目、オレはあなたを愛しています)


突き抜ける、溢れる、溢れる、いとしい、いとしい、十代目、律動、滾る熱、うねり、光る、スパーク。

「じゅ、う、だいめ・・、沢田、さ・・ん」

抑えきれない快感を伴ってオレは下着を濡らした。






やがて報せのベルは鳴るだろう。



fin