torta di mele
りんごのタルトを焼きましょう。
急に思い立って、奈々はキッチンに備え付けの棚を開けて、アーモンドパウダーの買い置きがあるのを確認した。ダイニングテーブルの上のかごには、山盛りの真っ赤なりんご。三日前の日曜日、綱吉を訪ねてきた隼人が手土産に持ってきてくれたものだ。
バター、小麦粉、砂糖、卵。アーモンドパウダーと、それから、りんご。何度か作ったことがあるから、手順はもう憶えている。何ができるのかと待ちきれない様子でまとわりついてくる子どもたちをあやしながら、奈々は手際よくタルト台を作って冷蔵庫で寝かせ、冷やすあいだにアーモンドクリームとりんごのコンポートを用意した。
さあ、もうすぐできあがるわ。そう言いながら奈々はオーブンの扉を閉じ、そしてもういちど開けた。いけないいけない、忘れるところだったわ……魔法の言葉。これがいちばん大事。
美味しくなあれ――。
午後四時をまわったころ、綱吉が隼人をともなって学校から帰ってきた。家中にひろがる幸福な匂いにすぐに気づいたらしく、キッチンに入るなりテーブルの上を見回して言った。
「ただいま。母さん、なに焼いたの?俺たちの分ちゃんとある?」
「おかえりツッ君、あなたたちの分はちゃんと取ってあるから大丈夫よ。ランボ君とイーピンちゃんお昼寝してるから、大きな声出さないでね」
奈々が取り分けておいたタルトをカップボードから取り出し皿を並べていると、隼人がキッチンに入ってきて丁寧にお辞儀をした。
「こんにちはお母様、お邪魔します」
「いらっしゃい。この前獄寺くんが持ってきてくれたりんごでタルトを焼いたのよ。美味しくできたから食べてみてね」
途端に隼人の顔がぱあっと輝く。
「あのりんごで……!?俺のりんごがお役に立てて嬉しいっス!」
嬉しそうな笑顔に、自分よりずっと背の高い隼人がとても可愛く思えて、おさなごのように頭を撫でてあげたくなってくる。二人の様子を見ていた綱吉が、椅子を引いて隼人に座るよう促した。
「獄寺くん、さっさと食べて宿題片付けようよ。母さん、ミルクティー作って」
そう言いながら綱吉は棚の扉を開けた。そして自分のと獄寺専用のマグカップを取り出そうとして手を止め、奈々にたずねた。
「こっちのティーカップ使ってもいい?」
隼人の持ってきたりんごで作ったタルトだから、ミルクティーもマグカップでなくちゃんとティーカップで飲みたい。綱吉はきっとそう思ったのだろう。壊れやすい食器だが、やんちゃな子供たちはすやすやと眠っているので割られる心配もなさそうだ。
「もちろんよ。ロイヤルミルクティー淹れましょうね」
奈々の言葉に、綱吉はほんのり頬を赤らめて隼人の隣に座った。
少しだけはちみつを入れたミルクティーとともに、綱吉と隼人はたちまちタルトをたいらげた。ご馳走様でした。隼人が手を合わせて言った。
「すっげぇ美味しかったです!あのりんごがこんな絶品のドルチェに変身するなんて、さすがですお母様!素晴しいパスティッチェーレになれますよ!」
「ありがとう獄寺くん」
奈々はにっこりと微笑んだ。隼人の言葉は耳にここちよい。また頑張って美味しいものを作ろうというエネルギーがみちてくる。
綱吉が小学三年生のころまでは、自分の作った料理やお菓子をとても喜んでくれた。「母さん、すごくおいしかったよ!」と、ちゃんと言葉にしてくれていたのだが、ローティーンになった辺りから――照れくさいせいなのだろう――美味しいとも不味いとも言わなくなった。残さず食べるし、「もうないの?」と訊いてくることもあるから、喜んで食べてくれているのは伝わってくるのだけれど。
夫の家光は手料理を食べるたび「奈々の作る飯は最高だなあ!」と褒めちぎってくれるが、いかんせん彼はほとんど家にいない。小さな子供たちも時々言ってくれるけれど、「おいしい」のひと言があるのとないのとでは、やはり意欲が違ってくる。褒め言葉には魔法の力があるのだ。
魔法の力――奈々は気づいていた。隼人が綱吉にも同じ魔法をかけていることを。
あなたは特別。あなたならできる。ほら、やっぱりあなたは素晴らしい。
たとえ失敗しても、彼は綱吉の気持ちを引っ張り上げた。
今回は残念でしたね、ちょっと運が悪かっただけですよ。次はきっと大丈夫!だってあなたはあんなに努力なさったんですから。他の誰が知らなくても、俺にはちゃんとわかっています。
俺はいつも見ています、あなたを――。
さんさんと降り注ぐ陽を受けて、青く硬かったりんごが赤く色づくように、綱吉は変わった。生き生きと明るく、可能性に満ち溢れて。
教師やクラスメイトから見れば些細な変化かもしれない。けれど、ともすれば無気力で、傷つくことを避けるようにひとりでいることの多かった綱吉が、人とのかかわりを怖がらずよく笑うようになったのは、自分を手放しで褒めてくれる隼人の存在によるところが大きいはずだと奈々は感じていた。
自分も家光も、綱吉の長所も短所も受け入れてはぐくんできた。けれど家族以外の第三者にそうされることで、綱吉はどれほどの自信と勇気を隼人から与えられたことだろう――綱吉を肯定し支えてくれる隼人に、奈々は誰よりも深く感謝していた。
「ありがとうね、獄寺くん」
微笑んでそう言うと、りんごのお礼を言われたのだと思ったらしい。隼人が姿勢を正し、一礼してから言った。
「どういたしましてお母様!また何かよい食材を見つけたらお持ちします!そう言えばここへ来る途中、並盛マートの店先に――」
「いいよ、まだりんごもこんなにあるんだから」
すぐに早まる隼人を牽制し、綱吉がかごの中のりんごをひとつ手に取った。
「母さん、このりんごでまた作ってよ。このタルト、……」
美味しかった。そう呟いた綱吉の手の中で、りんごがつやつやと赤くはにかんでいた。